今日は書くことがいっぱいあって困っちゃうな~。
午後はヨーロッパ最大のエトナ火山を見に行く予定なので、午前中は散歩して、その後こうして原稿を書いているだけなのだけど。
今宿泊しているユースのスタッフは、
誰も彼もが本当に優しくて親切。
ぜひバックパッカーにオススメしたいので、詳細をご期待下さい!
今し方サイトの更新のためパソコンに向かっていたら、「時間があったら僕の漢字を教えて欲しい」という。漢字で当て字を作り、それをタトゥーにするのだそうだ。彼の名は「フランチェスコ」。
えー、これを当て字!?超難しい・・・。しかし、彼の目は期待にキラキラとしているので断れない。いろいろ漢字を出して当て字を作成してみた。
「富蘭茶守鼓」。何だか見ているだけで笑いがこみ上げてくるのだが、私なりの精一杯の名前。チェなんて漢字、無いんだよね~。"腐乱""不乱"もまずいし。。紙に書いてあげると、非常に嬉しそう。これが彼のタトゥーになるのかと思うと、責任の重さを感じちゃう。
これを見ていたもう一人のスタッフ、サンティナ(女の子)も当て字を作って欲しいという。「珊手奈」。これが私の精一杯の当て字。私ってセンスないなぁと、苦笑しながら紙を渡すと何度もお礼を言われた。いやぁ~、こんなんでいいのかなぁ・・・。
シチリアで、こんなタトゥーを見かけた方。命名したのはわたしです・・・。
センスなくって、ごめんね(^^
イタリア
2005年04月28日 13:40
シチリアの朝は活気で溢れている。
私の宿泊しているユースホステルのすぐ裏に、魚や野菜、肉を売っている市場(メルカート)があり、昨日写真のページでご紹介したカターニアの美しい町並みとは全く異なった世界が広がっている。
日本人心がうずいてしまうのは、やっぱり魚市場!何たって新鮮、水揚げされたばかりのウニやマグロ、タコやイカが並び、伊勢エビやシャコはピチピチとはねていて、どれも本当においしそう。あんまりおいしそうだったので、じろじろ見ていると、ウニ売りのお兄さんが試食させてくれた。
う、うまい~!!!日本のウニと違ってかなりこぶりだが、直接スプーンですくって食べさせてくれた。ああ、至福。。
これは自炊しかないな。これだけおいしそうな食材が並んでいるというのに買わない手はない。ホステルにはキッチンがあるので、作ることには何の不自由もない。ギリシアからずっと持ち歩いているタマネギとニンニクも使ってしまいたいし、カターニアでの滞在中は自分で作ることに決めた。
となると、さっそくお買い物だ!何を買おうかしらと歩いていると、陽気な魚屋のお兄さんに声をかけられた。エビをむいて、このまま食べろと言う。これがまた、おいしい~!生のエビをつまみぐいなんて、なんて幸せなのかしら。
続いて、小さなイワシも頭を取ってくれて食べろと言うのだった。イワシを生で市場でつまみぐい・・・。醤油を持ち歩くべきだった!なかなか想像していなかった光景だ。「生臭いだろうからコーヒーをごちそうしてあげる(イタリア語が全く分からないため想像ですが)」と、お兄さんが一杯おごるためにバールへ連れて行ってくれた。
お兄さんのお店で試食もさせて貰ったしと、エビとイカを買おうとしたら、「好きなだけ持ってけ!」という。何て気前がいい人たち・・・。他にも、レモン一個買おうとしたら「いいよ、あげる」とくれたり、「オレンジジュースでも飲む?」とコップにそそいでくれる人がいたり。
メルカート、なんていいところ!!
やさしくていい男たちであふれている、朝の市場。
チャンスがあったらぜひ、行ってみて欲しい!
イタリア
2005年04月28日 13:36
あーあ、やってしまった。。。
MP3プレイヤーを、駅のベンチに置いてきてしまったようだ。
ギリシアでは音楽を聴く気分ではなかったが、イタリアは数多くの作曲家を排出した、いわば音楽の都。さっそくレスピーギの「シシリアーノ」でも聴くかと、取り出したのがまずかったのだ。
私はモノへの感情移入が非常に激しい。
プレイヤーを失ったことで、旅の道連れをなくした気分だ。
ギリシアでは長袖のシャツをバス停で落としたことに気づかず、朝になって真っ青に探しに行った。見つけたときは旧友に会えたようで本当に嬉しかった。「おまえ、よく無事で!!」と再会を喜んだものだが、今回は置いてきてしまったのがイタリア本土。もう戻れない・・・。
あーあ、本当に残念。自分のまぬけさに腹が立つ。
昨夜からの夜行列車での移動、列車からおりて、フェリー乗り場までのバスでの移動、フェリーに乗って、カターニアへの移動、カターニアから中心街までの移動と、今回の移動は14時間にも及んだ。そのうち待ち時間だけで4時間・・・。そんなだから、頭がぼーっとしていたのだろう。
あーあ、これから音楽の聖地、オーストリアも待っているというのに・・・。
チャイコフスキーで癒された日々もこれで終わりか・・・。
そう考えると何だか悲しくなって、列車でふて寝。
車掌に起こされ、あわてて起きあがると、目の前にすばらしい光景が広がっていた。風光明媚なリゾート地として知られる、タオルミーナだ。あんまり美しくて、落ち込んでいたことを忘れた。メテオラで受けた精神的ショックからもすっかり立ち直っていた私。
調子がいいほど、ショックからの回復が早い。そんな自分がちょっと好き。
イタリア
2005年04月27日 21:19
マテーラの駅から洞窟住居群のあるサッシ地区を目指し、歩いた。
ところが行けども行けどもサッシ地区が見えてこない。えー、地図によるとこの辺りなのに・・・。あたりを見回すと、地下に向かうような階段があり、そこが入口となっているようだった。
ひんやりとしたトンネルをくぐり、サッシ地区へと出た。
そこはもう、別世界だった。まるで別の惑星の、乾いた谷に作られた住居のようだ。町をあちこちと散策したが、人に出会うことはほとんどなかった。一人でこの町をさまよっていると、ここが明るい南イタリアであることを忘れてしまう。誰もいない、静かに永い眠りについているような町・マテーラ。この谷を一歩でも出ると、いつもの美しい南イタリアの町並みが広がっているのだから、不思議なカンジだ。
迷路のようなこのサッシ地区で、一番有名なのがサン・ピエトロ・カヴェオーソ教会。さすがにこの周りには観光客がたくさんきていて、「あぁ、ここは世界遺産だったな」と思い出した。
この現実感のない町を散歩するには、暑いけど、人がいない昼間がいいかもしれない。
イタリア
2005年04月26日 20:45
今日も心に染みる、すてきな一日だった。
1996年に世界遺産に登録されたアルベロベッロは、イタリア南部観光の最大の目玉と言ってもいい。その独特なかわいらしい家々に、多くの人は旅情をそそられることだろう。
トゥルッリは真っ白な壁に、円錐形のグレーの屋根を持つ独特な建築物だ。一見おとぎの国の、妖精でも住んでいそうな夢のある家に見えるが、実はその昔、封建制度がとても厳しかった時代に貧しい人々が唯一許された建築方法だったという。家は冬も夏も常に気温が一定になるように工夫され、貴重な水を得るため、トゥルッリの屋根を伝って地下にある井戸に雨水が貯められるようになっている。今はメインストリートに面したほとんどがカフェやレストラン、お土産屋さんとして機能しているので、観光客は気軽に中を見学できるようになっている。
中でも、旧市街の目玉である、サンタントニオ教会(トゥルッリ建築の教会)の手前にある、5軒が連なった見事なトゥルッリが目に入った。かわいらしいシンボルが屋根に描かれ、キレイに手入れがされている。中を覗くと、美しい織物のお店だった。
一見、ただのお土産屋さんだが、実は奥に特別なコーナーがある。他のお土産屋さんには置いていない、麻の上等の織物のコーナーだ。このアルベロベッロは、岐阜県の白川郷と姉妹都市の関係にあり、このお店のオーナーであるマリアは、その関係のイベントで今年1月に来日している。日本でテレビや雑誌でも取り上げられたという見事な織物は、ちょうど今、日本橋の三越で特別コーナーが設けられて販売されているのだそうだ。
そのマリアの見事な織物を見ていると、日本人女性に声をかけられた。レッチェでガイドをしているミキコさんだ。その麻布に織り込まれた色鮮やかな繊維は、ミモザやオリーブ、椿にプルーン、藤の花にバジリコなど、自然のもので染色されており、それぞれ模様にも意味がある、と教えてくれた。昔、この辺りの女性は、女の子が産まれると、結婚するまでに少しずつ、こうしたリネンを用意したのだそう。決して安いモノではないが、テーブルクロスで織り上がるまで2週間かかる、手の込んだものなのだ。
取材で来ている、良いホテルがあれば教えて欲しいと申し出ると、いくつか紹介してくれた。旧市街を歩き回って、トゥルッリに泊まれるようなホテルを探そうと思っていたのでありがたかった。ステキなホテルを3軒取材できたので、トゥルッリに泊まってみたいという方、お楽しみに!その他にもマッセリアと呼ばれる、封建制度時代の君主の家を改築した宿泊施設や、アルベロベッロに住む人々の持っている部屋を民宿として貸し出し、ホテルよりも安く泊まれる宿泊施設もあり、そんなアレンジも今後やっていきたいねと話す。うーん、あれこれと夢が膨らむなぁ!!他の旅行社ではまだやってない、ステキなアレンジが可能かも知れない!!
とアレコレ話しながら、ミキコさんにマリアの住居スペースも見せて貰った。ちょうどお昼前でいい匂い。コーヒーをごちそうになって取材をすすめていると、マリアがやってきてお昼も食べて行けと言ってくれた。ずうずうしいが、このチャンスを逃す手はない。さらにうちに一泊して行きなさいと言ってくれもした。ありがたかったし、そうしようかなとも思ったが、明日の夜行列車のチケットの購入や、仕事のことも考えるとそうはできなかった。
そうこうしているうちに、東京から石造りの建築物に関する取材に来ている、取材チームがやってきた。ミキコさん、実はこのチームの通訳をしていたのだ。私も(ずうずうしく)その取材に同行させて貰い、トゥルッリの構造について詳しく話を聞かせて貰った。(詳細は「旅の記録」の方にアップ予定!お楽しみに~!)
マンマ・マリアのトゥルッリに戻ると、お昼の支度が出来ていた。うーん、いい匂い!アンティチョークとポテト、アスパラを卵とパルメジャーノチーズでとじ、オーブンで焼いたモノだ。これが本当においしい。お店のゴハンもおいしいが、手作りのマンマの味は格別だ。さらに貴重であろう、生ハムを惜しげもなくふるまってくれた。お客にしかださないという赤と白のワインも開け、取材チームにミキコさん、マンマと共に盛り上がる。私なんてお店にいただけの、通りすがりの日本人にすぎないのに、彼女は本当にステキなランチタイムを提供してくれた。デザートには甘いメロンとスイカ、もちろんコーヒーも。
暖炉がぱちぱちという、すばらしいトゥルッリの中で頂いたマンマのゴハンと、今日偶然出会った人々に感謝せずにはいられない。
これだから、旅はやっぱりやめられない。
今日であったみなさん、本当にありがとう!!!
イタリア
2005年04月26日 05:54
ようやくバーリに到着した。床に横になって仮眠を取ったものの、疲れは相変わらずたまっていた。服もきっとダニだらけ(女の子の話とは思えませんが(-_-)、衣類を落ち着いて洗濯するため、どこか良さそうなホテルでゆっくりしたかった。精神的にも肉体的にも、今の私には休養が必要だ。
ステキなホテルに巡り会えた私は、一日中ホテルから出ることがなかった。熱いシャワーを浴びて、昼寝して。旅を始めて、初めて電話回線のついている部屋を借りたので、さっそくつないでみた。大成功だ。この原稿も、今日は直接アップしようと思っている。22日からこのリアルタイム日記の原稿を書く気力が無く、さぼっていたので、まるまる原稿を書くことに専念。服もジーパンとTシャツからスカートと白いシャツに替え、久しぶりに口紅も塗ってみた。泥だらけだった昨日とは大違いだ。お気に入りのミュールに履き替えて、ホテル内にあるレストランへ昼食を取りに出かけた。
ギリシアファンのみなさん、本当にごめんなさい。。
でも、ぶっちゃけて言っちゃいますね。
「イタリア、まぢでおいしい~!!!ブラヴォー!!」
前菜もパスタも、ホントに絶品。ホテルのレストランだしと、あまり期待していなかったのだが、これがおいしい!!とくに前菜、ズッキーニのオリーブオイルとニンニクとの和え物や、天ぷらのようなもの、キノコのソテー、キッシュ。あまりにギリシアとは違う!!船でたった9時間、アドリア海を越えただけなのに・・・。あんまりおいしくて、お腹がはち切れそうになるまで食べてしまった。こんなに楽しく、おいしく食べたのは久しぶりだ・・・。さすが食のイタリア、これからが本当に楽しみだ!
原稿を書いている合間に、音楽でも聴こうと持ってきた音楽ファイルをMP3プレイヤーにコピーした。CDやMDで持ってくるのは重すぎるので、パソコンにMP3ファイルをたくさん入れてきたのだ。
聴いたのは「チャイコフスキー交響曲4番」。 なぜチャイ4(オーケストラ用語では、このように訳す)かというと、帰国後すぐに演奏会があるから(私、チェロ弾きなんです)。演奏会に参加するつもりは全くなかったのだが、指揮者のセンセイに「出てね」と言われ、「はい」と返事をしてしまったのだ!聴いているうちに、原稿を書いているどころでは無くなった。スコア(全楽器の楽譜が書いてある冊子、持参です!)を取り出して、チェロパートをうたう。「レードドーシシーラレドーシシーラー♪ふんふん」と一人うたっている光景は異様だろう・・・。
あー、チェロが弾きたくなっちゃった・・・。
音楽でこんなにも癒される自分を、新たに発見したような気分だ。
旅行も今日でちょうど2週間。安息日にはちょうどいい。怒濤の数日間だったけど、すっかりチャイコフスキーとイタリア料理、それにステキなホテルで癒された私であった。
イタリア
2005年04月25日 05:34
5時間に及ぶデルフィからの大移動、それから1時間以上もバックパックを担いでホテルを探し回ったのが昨日。続いて、23日は早朝からメテオラでのトレッキングで歩き回ること半日。メテオラから下山し支度を整えてイオアニア行きのバスに乗ったのは、15:30を回っていた。
バス乗り場のお姉さんの話によると、イオアニアまでは3時間、そこでバスを乗り換えてイグメニッツィアに向かうのだという。イオアニアからのバスは19:45に出発し、2時間でイタリアへの船の玄関口・イグメニッツィアに到着するとのことだった。
ところが、船の出航は23:59。チェックインはその2時間前、つまり22:00。それまでにチケットを手に入れねばならない。バスが遅れるのはしょっちゅうあることで、つまり、今晩中のイタリア行きは不可能に思われた。ここで遅れるのはやむを得ないけど、イグメニッツィアでの一泊は面倒だ。できれば今晩のフェリーに乗りたかった。
あれこれ悩んでも仕方ないので、できるだけ体力を回復しようと熟睡。ふと目覚めると、一面が雪景色でびっくりした。さきほどメテオラから遙か遠くに見えたピンドス山脈を横断しているのだ!美しい風景に、疲れていた心が和んだ。途中、メツォヴォという、ピンドス山脈の合間に位置する小さな町を通過した。まるでアルプスの山間にあるような、かわいらしい町で、見ているだけですっかり私は元気を取り戻した。
疲れるバスの旅だが、身体も心も、その風景で癒してくれることがあるのだ。内陸部の知識が全くなかったが、ギリシアの本当の魅力は内陸部にあるのではないかと思ってしまった。万年雪をかぶる2000m級の山々、新緑が美しく、花の咲き乱れる高原地帯。どれを取っても絵になる。このルート、本当にスバラシイのでぜひみなさんにもお勧めしたい。
イオアニアには定刻につき、19:45発のイグメニッツィア行きに乗り換えた。遅い時間にイグメニッツィア入りするのはいやだったが、バスはこれしかないのだ。仕方がない。イグメニッツィアの港が見えてくると、窓の外を見て、めぼしいホテルと旅行社を探した。何と旅行社はまだ開いていた。私のようにかけこみでやってくるおバカな旅行者にフェリーチケットを売るためだ。
バスの到着は21:40。あと20分でチェックインせねばならない。バス停の目の前に旅行会社があったので、そこに飛び込んでチケットを下さいと言い、ユーレイルパスを見せた。私のパスはギリシアとイタリアで有効のモノで、フェリーにも乗船できるのだ。ところがカウンターの女性は首を振り、「新港の中央オフィスでしか扱ってない」という。さらに気の毒そうに大荷物を担いだ私を見、「ここから1キロはあるけど・・・。22:00で閉まっちゃうけど・・・」という。
すでに15分を切っていた。諦めきれず、見えもしない新港に向かって走る私。しかし300mもいったところで力つきた。ダメだ・・・、疲れが相当たまっている。深く深呼吸し、現在の状況を冷静に判断した。「絶対間に合わない。間に合わせるには車で行くしかない。」
そう、タクシーだ!ところが、タクシーはやってこない。誰か私を新港まで連れて行ってと手を挙げると、一台の車がストップしてくれた。彼は港湾で働く職員で、あせっている私に、「大丈夫、落ち着いて。カウンターまで連れて行ってあげるから」といい、私を送ってくれた。うぅ、本当にありがとう。彼に「ギリシアは好きか」と聞かれ、もちろん大好きよ、と答えた。
親切なギリシア人のおかげで無事にBlue Star社のフェリーに乗船。ベッドを取ろうと思ったら、一泊50ユーロもすると言われて諦めた。今晩は我慢して、明日ステキなホテルに泊まろう。身体は限界、足腰が痛い。とてもイスに座って寝てられないので、床に横になった。寒さが足下からやってきて、寝袋が欲しくなる。ついに寝床が床になったよ・・・、嫁の貰い手がなくなるわけだ・・・、とひとりごちて、浅い眠りについた。
怒濤の一日だったが、何とか周囲の助けを得てイタリアへ向けて出発した。
助けてくれたみんな、ホントにどうもありがとう!
そしてギリシア、さようなら!!
ギリシア
2005年04月25日 04:10
朝は8:20カランバカ発のバスに乗って、修道院群の一番上にある、メガロ・メテオロン修道院に向かった。バスで乗り合わせたのは昨日もラミアからのバスで一緒だった、日本人の女の子3人と同じく日本人の男の子1人。というか、このバス、観光客は日本人だけだった・・・。
世界遺産に登録されているこのメテオラの修道院群は、ギリシアの中央を貫くピンドス山脈の東麓に位置する、巨大な岩の上に立てられている。その空中にぽっかりと浮かんでいるかのような姿に、まるで神様の国に迷い込んだかのような錯覚を覚える。12世紀くらいからこの地の岩陰などに隠者が住み始めたそうで、14世紀になってからあいついで修道院が建てられたのだという。この聖なる地では、今もなお、敬虔な修道士たちが暮らしている。今世紀始めまでは縄ばしごしかなかったと言うから驚きだ。
これまたスバラシイ遺跡且つ有名な遺跡なので、ここでは敢えて下手な感想を述べない。写真のページにメテオラの写真をたくさんアップしたので、そちらをぜひ見て欲しい。
こぢんまりとしたヴァルラーム修道院では、修道士が賛美歌を歌っていた。どうしてこう、人々が神に捧げる祈りの歌とは美しいのだろう。その素朴な歌声と、複雑な音階のメロディーの前に、私も頭をたれた。私はクリスチャンではないが、彼らの信仰への敬虔な気持ちが、私にそうさせたのだった。ギリシア唯一の土産として、修道士の歌声が入ったCDを購入した。
カランバカの町からメテオラの頂上にあるメガロ・メテオロン修道院までは日にたった2本のバス。頂上から半日をかけてトレッキングしながらいくつかの修道院を回ろうというのは、私たち日本人以外にはおらず、他の観光客は大きなバスでやってきていた。フランス人も多いのだが、日本人の観光客も多い。汗だくになって坂を上っていると、JTBのバスからみなさんが手を振ってくれた。
今回のトレッキングで一緒になったのは先日バスで一緒になった日本人の女の子3人組。職業はなんと成田の税関職員!!いつもお世話になってマースと、CIQ(税関、入管、検疫の略)話に花を咲かせる。私は船上でCIQ担当者だったので、世界中の港の官憲と仕事をしていたのだ。「こんなもの持ち込むお客さん、いるよね~」とかなりマニアックな話が出来て楽しかった。トレッキングは約半日、6時間に及んだが、最後の修道院・アギオス・ステファノス修道院へは行けなかった。今晩出航のイタリア行きのフェリーに乗りたかった私は、何としても15:20発のイオアニア行きのバスに乗りたかったから。
カランバカの町へのトレッキングコースがある、アギア・トリアダ修道院で3人と分かれてから、一人黙々と下山した。身体は疲れていたが、昨日の精神的なショックも3人とのおしゃべりと、すばらしい風景に心癒され、すっかり足取りは軽かった。
これからすさまじい夜になろうとは・・・、この時はまだ、知る由もなかった。。
ギリシア
2005年04月25日 04:06
すっかりお気に入りのデルフィから次の町に移動するのは非常に面倒だった。
この街を離れ、今日は終日カランバカまで移動せねばならない。デルフィからラミアの町までバスで出て(日に2本!!)、そこからトリカラまで移動(2時間に一本!)、さらに奇岩で知られるメテオラの麓の町、カランバカまでバス(1時間に一本!)・・・。たぶん6時間にも及ぶ大移動だ。果たしてバスに迷わず乗れるのか・・・。
10:20デルフィ発のバスの乗ろうと待っていると、やってきたのは私の部屋の隣に宿泊していたアメリカ人のジェニファーとクリスだった。二人ともかれこれ旅を始めて2年(ヨーロッパの旅人には年単位が多い・・・)になるそうで、ジェニファーは3年ほど英語教師として宮崎に住んでいたのだそう。
二人もカランバカへ行くとのこと。やった!!旅の仲間が増えた。仲間がいると何かと心強い。
トイレに行くときにちょっと荷物を見てもらったり、情報交換をしたり、何かと相談できるからだ。
何だか旅はロールプレイングゲームに似ている。目標があって、目標に向かって情報を集め、時に仲間を作る。怪物こそでてこないけど、仲間と共に困難を乗り切り、宿屋に泊まって体力を回復するあたり(^^、そっくりだ。ただし、ゲームと違って全て自己責任、作られたお話ではないので、どんな話を作り出すかは自分次第なのだけど。
バスは少々遅れてやってきた。デルフィからラミアまでの道は山を登ったり降りたりで、なかなか楽しいモノだった。ラミアのバス停が問題だ。2時間も待たねばならないのか、あるいは今日のバスはもうなかったりして・・・。こういうとき一人だとあれこれ妄想して不安に陥りやすいが、仲間がいたのでちっとも不安ではなかった。まぁ、今日中につかなければどこかに宿を取るだけなのだ。
問題のラミアに到着すると、バスを待っていた欧米人の女の子が「トリカラへ行くの?もうあと数分で来るから、切符を買っておいで!」と親切にも教えてくれた。ラッキー!ついている。すぐに窓口へ走り、チケットを手に入れた。バスはすぐにやってきたが、何と既に満席。トリカラまであと2時間、立たねばならなかったが、それでもデルフィでの2泊が私をかなり元気にさせてくれていたので、何のことはなかった。バスには日本人の女の子3人が乗っていた。聞くと、10日間の予定でギリシアを旅行しているという。彼女たちは、明日のメテオラ観光での旅の仲間となる。
トリカラで降ろされた私たちは、再びチケットを買って、今度はカランバカ行きのバスに乗った。これもすぐに接続していた。本当にラッキーだ。アテネからデルフィへのバスはバス停で2時間も待ったので、そのことを考えるとありがたかった。
カランバカに無事到着したのは、まだ日も明るい15:30。ところが、目的にしていたホテルは閉まっていた。それどころか、駅前に点々とあるホテルはことごとくクローズ。観光シーズンではないのだ。美しい奇岩がどこからでも臨めるこのカランバカの町を、宿泊する場所を求めて何と1時間以上さまよった。正直言って、もう一歩も歩けない・・・、というところでようやく「ROOMS」という看板を発見。ノーチョイス、そこを借りることにした。
明日はメテオラをトレッキングして、その後イタリアへのフェリーに乗るためにイグメニッツィアという港町へ行かねばならないのに、肉体の疲労は限界に達していた。せっかくデルフィで心底リフレッシュしたのに・・・。また、プライベートなことで大変恐縮だが、精神的大ダメージもくらってしまい、その日の夜は気力がなえて、サイトのアップも、原稿を書くことも何も出来なかった。意外に弱い私・・・、何だか涙が止まらなくて、やっぱりぬるいシャワーを浴びて、震えながらふとんに潜り込んだ。
明日の移動を考えると、気が重い・・・。
ギリシア
2005年04月25日 04:03
すばらしい遺跡に出会ってしまった。
世界遺産にも登録されている「デルフィ遺跡」だ。
古代ギリシアでは、世界は円盤状のものであると信じられ、デルフィは「世界のへそ」、この世の中心であると考えられていた。紀元前6世紀頃からデルフィでの信仰が始まり、ギリシアだけでなく周辺にあった都市国家からも多くの人々が参拝に来て、大いにこの地は潤ったのだという。
標高2457mのパルナッソス山の山麓に、その遺跡はあった。
早朝の遺跡は、空気がピリリとして何だか神々しい。
遺跡の周囲には美しい花々が咲き、春の訪れを喜ぶみちばちと鳥の声に、クレタやロドスでは味わえなかったすがすがしさを味わい、その地に立っているだけでも感動がこみあげてきた。
この神聖な雰囲気を語るのは非常に難しい。
あんまり好みの遺跡なのでうまく言葉に出来ないけど、私が訪れた数多くの遺跡の中でもイチオシだ。すばらしいのは遺跡だけではなく、デルフィの小さな町も魅力的だ。
デルフィの町は遺跡から歩いて10分ほど。ギリシア中部地方独特だという赤い瓦屋根が印象的なかわいらしい家々。散歩するだけでも楽しいが、ここの町からの眺めは最高なので、ぜひとも一泊することをオススメする。
右側にはコリンティアコス湾が広がり、目の前には深い谷が広がる。ちょっとした山岳リゾートにきた気分だ。空気も清浄で、雰囲気の良いタベルナや、小ぎれいなペンションが軒を連ねているデルフィの町。
アテネからの日帰りツアーがほとんどだが、日帰りにはもったいない。遺跡の散策で古代世界に思いを馳せ、澄んだ空気を思いっきり吸い、おいしい食事に舌鼓を打つ・・・、そんなぜいたくな時間を過ごせる場所だった。
一泊の予定だったけど、結局二泊してしまいました・・・。
ギリシア
2005年04月21日 20:17
今回の旅はパソコンを始め、無くなっては絶対困るモノがたくさんある。
CD-ROMでしょ、カメラでしょ、フロッピードライブも欠かせないし、ACコード一本が盗まれたって
この「リアルタイム旅日記」プロジェクトは終わってしまう。
ロドス島でうっかり、いつものようにドミトリーに泊まってしまったが、本来なら非常に危険だ。
大きなユースなどでは大抵部屋にロッカーがあって、各自持参の南京錠で閉められるようになっているのだが、島ではそういった所を探すのも難しそうだった。
となると、部屋をシングルユースするしかない。
ロドス島ではシェアしたのが日本人、それも3泊中1泊だけで、あとの2泊は必然的にシングルユースだったから助かったが、クレタのユースは24時間、ドミトリーの部屋のドアが開いているようなところだったので、シングルユースにした。
パソコンを持ち歩いて観光は出来ないのだから、これも必要経費。
こんなところでケチって、もしパソコンがなくなってしまったら・・・。それこそ、元も子もないのだ。
ちょっと高くても、しょうがないからシングルユース。
削れるところはこれで、食費だけになってしまった。
そういえば、トルコのレストランで食事をとったのと、ロドスのタベルナで昼食を取ったの以来、
食事らしい食事をしていない・・・(;_;
昨日もサンドイッチ、今日もサンドイッチ。
早くイタリアへ渡りたいような気がしてきた・・・。
ギリシア
2005年04月20日 23:04
ギリシア人の喫煙に辟易している。
いまどき禁煙エリアがないとは信じられない。あまりのたばこの匂いと煙に、頭が痛くなるし、
気持ち悪くて胃が何も受け付けない。
フェリーに乗ったあたりから「アレ??」と思った。パブリックスペースのどこでも喫煙している人がいる。気持ちが悪いので甲板ですごそうと思っても、風がとても強いのでとてもいられない。
すごせるところはサロンなど、パブリックスペースしかないのだ。
今、こうして日記を書きつつバスを待っている間にも、カフェの各テーブルからは白い煙があがっている。隣も後ろも遠慮なし。禁煙だったのは、飛行機に乗っている間だけ。さすがにバスの車内ではたばこを吸っている人はいないな・・・、と思ったら運転手が喫煙しながらドライブしてる!!
ギリシアって、喫煙大国だったのだ。
あと、残念なことに排気ガスがスゴイ。アテネ周辺が光化学スモックで常に問題になっているのは有名だが、すばらしい景観のロドス島も、緑豊かなクレタ島もこれがひどいのだ・・・。
ロドスの旧市街は城壁で囲まれていることも手伝って、排気ガスがこもりがち。城壁がガスで黒くなるのではないかと心配してしまうが、そんなのお構いなし。せっかく満ち足りた気持ちで散策しても、これでは雰囲気が壊されてしまう。
美しい景観と荘厳な遺跡を期待している私としては、この点はいただけない。
せめて禁煙席、作ろうよ・・・。
ギリシア
2005年04月20日 23:00
コメントをくださっている皆様、本当にありがとうございます!!
これが楽しみで毎日原稿を書いているようなモノで・・・(^^
本当に勇気づけられます。
現地から日本語の書き込みに不自由しているので、
みなさんのコメントにお答えできず、本当に残念です。
もう少し落ち着いて環境が良くなったら、
直接マシンをつなげたいと思っていますので、
それまでお待ち下さいね!!
何しろ安宿ばかり、電話回線などないのですよ・・・。
うっかり「今日はもう疲れたからいいかな・・・」なんて思っちゃうのですが、
読んでくれている人がいることを励みに、がんばります!!
これからも応援、ヨロシクお願いします★
ギリシア
2005年04月20日 22:39
街角でふと見つけた、一枚の絵はがきに目を奪われた。
小さな島が写っているだけの写真だが、その島全体が城壁で覆われ、まるで海に浮かぶ城塞のようだ。きっとベネツィアがクレタを植民地にしていた時代のモノに違いない・・・、そう思った。
ここはどこだろうと思い聞いてみると、「スピナロンガ」だという。行き方を尋ねると、ロドスからのフェリーが着岸した、あの坂道のアギオス・ニコラオスからエルンダという町まで行き、そこから小舟で行くのだという。再びあのアギオス・ニコラオスへ行くのは不本意だったが、あの絵はがきが忘れられず行くことを決めた。
スピナロンガへの道のりは、途中でマリア遺跡に寄ったり、バスの下車が上手くいかなかったりで結構大変だったのだが、スピナロンガへの船着き場がある港町、エルンダには何とか13:00前に到着した。
なるほど、湾の中州のようなカンジで、小さな島がぽっかりと浮かんでいる。小型ボートで約20分。ようやく絵はがきの島へと上陸した。
遺跡は、すばらしいものだった。
ここを押さえられては、敵は内側の港には入ってこれまい。完璧な天然の城塞だ。島はぐるりと無駄のない城壁で囲まれ、内側の廃墟には花が咲き乱れていた。島の東側は断崖絶壁、その上にがっちりとした城壁が作られ、島の西側にはかわいらしい町が、そして南側の静かな入り江には港が作られている。
あの海峡の向こうからオスマントルコ軍がやってきたのだろうが。城壁は16-17世紀に建てられたとのことなので、対トルコをねらって作られたに違いない。手元に資料が何もないのであくまでも私の推測に過ぎないけれど。日本に帰国したら調べてみたい。
ついこの間まで人が住んでいたような廃墟に、色とりどりの花が咲く。周りの海の色もとびっきり美しいので、マイナーだけどぜひ行って欲しい、そんな所だ。おとぎの国を散歩しているような気分になれる、すばらしい遺跡だった。
ギリシア
2005年04月19日 22:10
クノッソスは長い間、伝説の迷宮として語られているに過ぎなかった。神話によるとクレタのミノス王がミノタウロス(ミノス王の妃と牡牛の間に生まれた半獣)を閉じ込めるために作ったのが、迷宮ラビュリントス。しかしそれが単なる神話はなく、実在した宮殿だったことが、20世紀になってから考古学者アーサー・エヴァンスの手で明らかになる。
この迷宮を作ったとされるエダイダロスは、その秘密保持のため共に迷宮に閉じこめられ、その子共はロウで羽根を作り逃げだそうとするが、熱で溶けてしまった・・・。私たちにもなじみ深い、イカロスのことだ。
その、伝説の迷宮へ行った。
遺跡を見ているだけでは当時の様子を想像するのが難しいかも知れないが、考古学博物館の復元模型をみると、その様子がよく分かる。まさにラビリンス、巨大で複雑な建造物が、はるか3700年もの昔この地に作られ、多くの人々が暮らしていたのだ。
宮殿は神殿として機能していた西側と、王宮として機能していた東側とに分かれている。数多くの部屋、倉庫、神殿の跡に圧倒されるが、中でも興味深いのは女王の間。かわいらしいイルカと明るい色彩に、太古の女性の繊細さをかいま見ることが出来る。
ここにかつて王や女王がいて、多くの人々が牡牛を神とあがめ、独自の高度な文明を花咲かせていた。3700年前もの昔でも、人々は私たちと同じように笑ったり怒ったり、恋をしたりしたのだろう。人間の営みは今も昔も変わらない。どんな会話をしたのだろう、どんなことで悩んだのだろう・・・。3700年前の人々の様子を思い描きながら、たっぷりと早朝の散策を楽しんだ。
ギリシア
2005年04月18日 23:04
ようやくクレタ島へとたどり着いた私。
13時間以上の船旅は、キャビンも押さえていたおかげで思ったよりも快適だった。船はセント・ニコラオス港に着岸したが、私はこの日の内にイラクリオンに行きたかったので、重い荷物を担ぎ、バス停へと向かった。
セント・ニコラオスの情報が何もないので、途中土産屋の主人にバス停への行き方を尋ねると、「ここからはかなりあるよ。ほら、あの丘の上なんだ」とのこと。ひえ~・・・。
なぜ港からバス停がこんなにも遠いのだろう。彼の言ったとおり、本当にすごい坂道が私を待っていた。ひっくり返りそうになりながら、足を一歩一歩踏み出すが、坂の途中で泣きそうになる。まだ半分も登っていない・・・。
どうしよう、タクシーに乗っちゃおうかな。でも距離的にはあと1kmもないに違いない・・・。そう思い、坂の上を目指し、再び歩き始めた。この坂を制覇できたら、これからの道中、泣きそうなことがあっても、耐えられそうだったから。
よいしょ、よいしょ。
何とか登り切り、今来た道を振り返ると、夕日に煌めくセント・ニコラオスの町が見えた。
やればできる。
一歩一歩、ゴールを目指してがんばろう、そう思った。
ギリシア
2005年04月17日 20:44
散歩は朝がいい。観光客が全くいない通りを歩いていると、普段は客引きでうるさいお店の人たちも開店準備に大わらわ。そんな素朴な素顔をかいま見、港の方へ歩いていくと、今日も大型客船が入港していた。昨日の船もまだ着岸していたから、合計2000人近くの観光客が上陸していることになる。この小さな島で、それだけの乗客をハンドリングする能力があるのかと余計なことを考えながら、自分が船に乗っていた頃を思い出した。
全体的に、ギリシア人の船乗りは多い。先日町を歩いていたら、元船乗りで日本にも行ったことがあるというギリシア人に出会った。私が初めて乗った船も、もとはギリシア船籍、のちにインドネシア人が船主になったというものだった。上級クルー(船長や機関長など)がギリシア人で、一緒に働いたのを思い出す。あのときの船長はどうしているかな・・・、とふと懐かしく思った。
港を右手に見ながら、海沿いを歩く。左手には堅牢な城壁がそびえ、朝日を受けて白く輝く。城壁の上部には南国を思い出させるようなソテツの大木が生い茂り、ここがヨーロッパというより、アフリカや中東に近いことに気づく。
ヨハネ騎士団はフランスやイタリア、ドイツにイギリスといった、キリスト教国から派遣された団員で構成されており、それぞれ分担して城壁を守っていた。1522年、ロドスはスレイマン大帝の手に落ちたが、これだけトルコに近い島で戦った男たちの気持ちはどんなだっただろうか。ヨーロッパからの援軍を期待できぬまま城塞を強化、そして籠城し、5ヶ月にも及ぶ死闘を繰り広げたのだった。
後にマルタ島へ移り、そこでも堅牢な城塞を築くことになるヨハネ騎士団の団長、ラ・ヴァレッテが活躍したであろう、フランス騎士団の守っていた城壁の辺りを感慨深く散歩した。ラ・ヴァレッテは当時20代、ロドスでの戦いに敗れマルタへ移った彼は、ロドスで敗れた43年後、再びスレイマンと刃を交わし、今度はマルタを守り抜く。
そんな騎士たちの情熱にひたる、朝の散歩だった。
ギリシア
2005年04月16日 18:50
昨日からうっかり自炊生活が始まってしまった。
トルコでの予算オーバーがかなり響いているのと、ロドス島の物価が結構高いこと、それに宿でキッチンを使えるのが原因だ。
昨晩はパスタとトマト、タマネギにサラミなどを買ってきておいしくいただき、今朝はパンに余ったサラミを挟み、ロドスの美しい港を見下ろす小高い丘で朝食を取った。
サイト内「今日のイチオシ!食べ物」のコーナーで紹介できるよう、なるべくおいしいものにありつきたいものだが、何しろ予算が・・・。そんなワケで今日の「イチオシ!食べ物」のコーナーはまたギロスだがお許しを・・・。
朝食を取った私はバス停へ向かった。ここから古代都市の面影を今も色濃く残す、リンドスの村へ行くためだ。リンドスへは夏期になるとロドスの港から船も出るのだという。
リンドスへはおよそ1時間半のみちのり。真っ白い家々がアクロポリスを中心に建てられ、リンドスの村全体を囲むかのようにすばらしく美しい海が広がる。古代遺跡に美しい海!!何時間いてもあきないようなすばらしい所だ。ロドスへ行ったからにはぜひ訪れたいスポット。ただし、ローシーズンでこの観光客の数だから、ハイシーズンはスゴイかも・・・。朝一番のバスで訪問することをオススメする。
再びロドスへ戻り、今度は新市街へ散歩へ出かけた。海の色がすばらしい~!この日はとても大きな客船が入港しており、その白い船体が真っ青な海に映える。夏は海がもっと濃く美しくなって、さぞかしきれいだろうな、と思う。
ロドスは旧市街そのものが世界遺産に指定されているが、これといった見所はない。いうなれば、ロドス・シティそのものが見所なのだ。朝・昼・夕と違った表情を見せてくれるこの町を、心ゆくまでゆっくりと探索したい。
P.S. 夕食は昨日の残りのソースで再びパスタを頂きました。とほほ・・。
ギリシア
2005年04月15日 18:23
ついにロドス島へ来た!!
トルコのマルマリスを一時間遅れで出発し、お昼前にようやく到着。出港直前に天候が急激に悪くなり、雷が落ちる中の出航となった。もちろん海上も大荒れで、かなりの大揺。これだから小さな船は嫌いなのよ・・・、と久々に船酔いに苦しんだ。
ロドスに到着しても、まだ雨は降っていた。これから重い荷物を引きずって宿泊先を探さねばならないと思うと、船酔いも手伝ってかなり憂鬱だったが、運良く(?)客引きのおじさんがいたので、彼の世話になることにした。値段は10ユーロ、ドミトリーで男性とシェア。
それはいいのだけど、掃除、いつしたの??というくらい汚い。オンボロでも清潔なら文句はないのだけど、シーツくらいきれいなのが欲しかった・・・。中国で「こんなところでシャワー浴びれる??」みたいなきっついドミトリーに泊まったことがあったけど、シーツは洗いたてだったのに・・・。シーツまでシェアはしたくないよ~~(涙)。
しかし荷物を背負ってまたどこかを探すには疲れ果てていたので、ここに今晩から3泊することにする。私のだいっきらいな虫が出現した日にはすぐにでも出させてもらうけど!!
ロドスの旧市街はそんなに広くないので、ゆっくりと散歩を楽しむことが出来る。人っ子一人いない城壁の中は、まったく中世の雰囲気そのもの。対イスラム世界の最前線基地であったこの島を、200年の間支配していた聖ヨハネ騎士団。その騎士団は5ヶ月にも及ぶ攻防線を繰り広げにもかかわらず、1522年、28歳の若き大帝・スレイマン一世によって一掃されてしまった。
その城壁は美しく、すばらしかった。かつてこの場所で、多くの人々が命をかけて戦ったのだった。随所に工夫が凝らされたその厚い城壁は、今でも私たちを圧倒する。
城壁の内側には所々に、燃えるような赤いポピーが咲いていた。青い空に白い城壁、そして真っ赤な花、群青の海。ロドスの旧市街は、絵の中からそのまま出てきたような城塞都市だった。
ギリシア
2005年04月14日 18:18
イロイロな事情により(私のサイト内・旅の記録で詳細は発表予定)、急遽予定していたリキュアの遺跡(クサントス・レトゥーン)行きをカット、ダラマン空港から一路マルマリスへと向かった私。
手違いで、バス代と朝食代だけで両替したお金をほとんど使い果たしてしまい、手元にはたったの2トルコリラ!マルマリスのバス停に降ろされたものの、ここから先どうしたら街へ行けるのか分からず途方に暮れていると、親切なおじさんがバスに乗せてくれ、おまけに「10ドルくらいでホテルを探している」という私の願いを叶えるべく、ホテルに交渉までしてくれ大助かり。ただの通りすがりの人だったのに、トルコ人は本当に親切だ。
ロドス島へのフェリーチケットを買おうと、港をうろうろしていたら、「今マルマリス湾内のショートクルーズが出発するよ」と声をかけられ、うっかりそれにジョインしてしまった。
マルマリスは日本人にはまったくなじみがないが、実は欧米客がシーズンにもなると直行便でやってくる、風光明媚なリゾート地なのだ。クルーズには英国やフィンランド、オーストラリアからきた欧米人が参加しており、アジア人は只一人、私だけだった。
クルーズのスタッフもみんな親切だったけど、傑作だったのはマルマリス旧市街にあるレストランの支配人。クルド人だというムハンマドの故郷はイラクに面した土地で、一族は広大な土地で農業をしているのだという。
「Life is beautiful!!」が彼の口癖で、自分と結婚したらいかに幸せになるかを語られた(^^
クルド人の彼が「Life is beautiful !!」を口にするまでは、数々の困難があっただろうけど、
それを想像もさせない明るい笑顔が印象的だった。
トルコ
2005年04月13日 18:38
来る4/12から地中海・中欧・東欧を3ヶ月かけて旅する予定だ。
理由はズバリ「お客様によりよい旅を提供する」ため、情報収集に出かけるのだ!!
3ヵ月後にはすごいデータベースが出来上がっている予定なので、このエリアにご興味のある方はお楽しみに!!
もう一つ企んでいることがある。
このブログでも何度か紹介したが、「リアルタイム旅日記(たびにっき)」と称して、毎日私のウェブサイトで日記等を更新するつもりだ。新鮮かつレアな情報を発信することによって、これを読んだ方に「マルタ島に行きたくなっちゃった~」と思わせ、うっかり「見積もり」ボタンを押したくなるような事態に追い込んでしまおうという魂胆なのだ!!
★旅の予定ルート等に関しては「予告ページ」でご確認ください。
ところで・・・、問題はどうやって旅先から接続するか、ということである。
方法はいくつかあるが、一番簡単なのは旅先のインターネットカフェを利用することだろう。インターネットカフェのパソコンで、日本語のページを表示しようとするだけで、大抵は日本語が見られるようフォントが自動的にインストゥールされて、メールやウェブサイトの閲覧には問題がない。
もちろん、フォントのダウンロードさえもおぼつかない回線もあれば、それ自体が許可されていないなど、いろいろな不具合は生じるのだけれど・・・。
メールを送ったり読んだりできる最大の利点は、通信費用がとっても安いということ。私はこの3年ほど、旅先から自宅に電話をしたことがない。いつもネットからメールを送って連絡を取っている。
最近は ウェブメールのサービスを提供しているプロバイダも多いが、一番簡単なのは Hotmailなどでメールアドレスを作ること。これさえあれば、世界中からメールを送受信できるといっても過言ではない。
ちょっとしたホテルならビジネスセンターがあって、インターネットが出来る環境が用意されていることも多いし、ゲストハウスやユースホステルなどの安宿でも、最近ではパソコンを置いていることが多い。
とっても便利なので、まだやったことのない方、旅先からインターネットしてみよう!!
ウェブサイトの更新となると話は一段とややこしくなるので、今回は割愛。知りたい方はこちら 「地球のつなぎ方」で!!
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