持ってきていた全ての靴下に穴があいた。
この三ヶ月の旅で使用していたのは三足の靴下。
ということは、一足あたり一ヶ月はいてたことになる。
(靴下の耐久日数は30日間のようだ。)
Tシャツも三枚。
一枚はお気に入りのトロント・メイプルリーブス(アイスホッケーのチーム)のシャツだが、
これも大分首周りがくたびれてきた。
黒のTシャツはあちこちほころび、何度か旅の途中で縫い合わせた。
ジーンズは一本持ってきていたが、お気に入りの大切な一本だったのに、
使い方が荒いせいか色が落ち、裾がすり切れてきたので途中で帰国させ、
母に別のジーンズを合流させてもらった。
三ヶ月間がんばってくれたThe North Faceの靴は、あちこちがすり切れみじめな姿。
常に持ち歩いたPorterのショルダーバック(兼ナップサック)も、元の色はベージュだったが、
現在はグレーがかって別物に(涙)。
ブログアップには欠かせないノートPC・ピラルク(パソコンの名前)は、最後までがんばってくれた。
昨日ダイヤルアップが出来ず、ついに最終日を目前にモデムが壊れてしまったか・・・、
と思っていたが、電話線の方が切れていたことに気づいた。
パソコンではなく、携帯していた電話線が最後の最後に息絶えたのだった。
みんな、今までよく頑張ってくれた。
一緒に三ヶ月間を過ごしてきたこれらのモノたちは、私にとっては戦友とも言える。
その中でも一番の戦友と、今日別れを告げた。
デジカメのロッサだ。
エジプトバザールの近辺は日曜日だった為に非常に混雑していた。
すられたら大変、とバックにロックをし、次はデジカメ・・・、と思っていた瞬間だった。
デジカメの入ったケースに気が集中していたのに、あっという間にすられてしまった。
抜かれた瞬間に気づいていたにも関わらず、それを防げなかったのだ。
今の今まで、こんなことは一度もなかったのが密かな私の自慢だったのに。
やっぱり最終日だから気が抜けていたのか・・・。
ロッサが無くなった時点で終わったであろうこの企画。
ロッサを失ったのが最終日だったことは不幸中の幸いとも言える。
盗まれたことがショックと言うより、あの子と一緒に帰れなかったことが悲しい。
今の今までがんばってくれたのに、最終日で私はあの子を失ってしまった。
盗んだ人がロッサを大切に使ってくれるならまだいいけど、充電も出来ずに捨てられるのが
オチだろう。ロッサが無造作に捨てられ、雨に濡れて錆びていく様子を想像するだけで、
ロッサに申し訳なくて泣けてくる。
あーあ。自分の不注意のせいだけど・・・。
家に帰るその瞬間まで旅は続いている。
まだまだ気を抜いてはいけませんよと、ロッサに身をもって言われた気がした。
今回の旅、本当に勉強することばかりだ。
ロッサをはじめ、今回の旅で一緒にボロボロになってきた仲間たち、どうもありがとう!
明日はいよいよ帰国。最後まで気を抜かず、誰も欠けることなく日本に帰ろうね。
トルコ
2005年07月11日 12:01
ブルガリアの首都・ソフィアで、列車がもうすぐ出るというのにまだ迷っていた。
ソフィアから19:00のバスでマケドニアへ行くか?
それともイスタンブールへ19:15の列車で向かうか?
昨日からずっと迷っていたことだけど、直前になっても答えが出ない。
マケドニアのオフリド行きのバスは朝の5時到着。
うーん、今日だけですでにバスに4時間以上乗っているのにきついなぁ・・・。
考えている内にだんだんそう思えてきて、結局イスタンブール行きのチケットを買いに走った。
ところが、列車は何と6時間遅れての到着。ヘトヘトになりながら、夜中の1時に列車に乗り込むハメになってしまった。
懐かしいイスタンブールに到着したのは既に夕方。
駅を降りると、今までのどの国とも違う、独特の熱気に満ちていた。
遠くのモスクからコーランを詠唱する声が聞こえる。
ボスフォラス海峡からは船の汽笛が聞こえる。
三ヶ月に及ぶ旅は、このイスタンブールで終わりを迎える。
イスタンブールは私にとって非常に感慨深い場所だ。
初めての海外旅行がこのトルコで、初めて飛行機から降り立った外国がこのイスタンブールだった。霞がかったマルマラ海、街のあちこちから延びるミナレット。行き交う人々も、そのざわめきも、何もかもが珍しくて感動したものだ。
旅行会社で働くようになって、"旅"がただの商品となり、旅に対する感動が薄れたときは、いつもこの時の感動を思い出すようにしていた。イスタンブールは、だから、私の旅の原点のようなものだ。
その原点に、再びこんな気持ちでこの地に経つことになろうとは。
どこを歩いても、何を見ても、初めてこの地を訪れたあのときから今までの10年間を振り返ってしまう。10年前の私には、今の私は全く想像できなかった。そして同じように、今の私に10年後の自分は全く想像できない。
再びこの地に立つとき、私は一体どんな私になっているのだろう。
過去と現代が交錯するイスタンブールは、こんな物思いに耽るのにぴったりな都市。
旅の終わりに、このイスタンブールを選んだのは正解だった。
トルコ
2005年07月11日 11:41
リラの僧院はブルガリアが誇る世界遺産で、日本のグループツアーなら必ず寄るメインの観光地だ。それなのに、ここへ行くまでの道のりを確認するだけで、前日3時間を費やした。
ある人は「中央駅のバスターミナルから出てる」というし、宿泊したホステルのお姉さんは「朝早くに直通バスが、町はずれのバスターミナルから出ている」という。
仕方がないので双方のバスターミナルに行って確認(ちなみに双方は片道30分以上離れている)。
ホステルに宿泊しているような人なら、誰でも同じ質問をすると思うのだが、それでも「分からないけど多分ある」というブルガリア人・・・。バスの発着所も、時間さえも決まっているのに・・・。
正解は南西にある「オフチャ・クペル・バスターミナル」から10:20の出発。終点のリラ村まで行き、
そこから12:40のバスでリラの僧院へ行くことになる。オフチャ・クペル・バスターミナルへは、
中央バスターミナルから19番のトロリーバスを利用。
たった3行のインフォメーションを集めるのに3時間。
いやはや、観光するのも一苦労・・・。
閑話休題。
先日、ヴェリコ・タルノヴォで出会った日本人グループの方たちが、「リラの僧院はとても良かったけど、観光客が多すぎて想像していたものと違い、ちょっとがっかりだった」「泊まらないとリラの僧院の雰囲気は味わえない」とおっしゃっていたので、泊まることにした。
リラ村に到着したのは13時過ぎ。月曜日のせいか、観光客はあまりいない。団体は一組もなかったからか、僧院内は非常にひっそりとしており、怖いくらいだ。
宿泊したい旨を告げてチェックインしたが、宿泊者名簿には私一人!こ、こんなところでヒトリボッチ!?お坊さんたちも泊まるんでしょうね??お化け出ないよね??本当に一人だったらどうしよう・・・。と不安が募る。
15:00にソフィア行きの直行バスが出て、それに大方の観光客は乗って去ってしまった。夕方になるとさらに人が減ってゆき、本当に寂しくなってきたが、隣の隣に一組の家族が泊まることが分かり、ほっとする。良かった~。(結構本気で怖かった)
夜のリラの僧院は、水の音しかせず、本当に静かで厳かな雰囲気に包まれていた。
朝のリラの僧院は、信者さんたちが次々とやってきて結構賑やかだ。
宿泊者が私以外にいることが分かってからは、たっぷりとその雰囲気を楽しんだリラの僧院。結果的にはすばらしいリラの僧院滞在になった。ただし、僧院以外は本当に何もないので、夜の孤独に耐えられない人は宿泊をやめた方がいいかもしれない。
サイトの更新がままならない、ルーマニアとブルガリア。
インターネットカフェを探すのに四苦八苦している。もっと普及しているのかと思ったのだけど・・・。
ルーマニアはそれでも、シナイアやブラショフでアクセスできたから良かったが、ブルガリアでは皆無!!首都ソフィアをさんざん歩き回って探したが、全く見つからない。
仕方がないので、電話回線付きのホテルに泊まったが、セットアップしてから気が付いた、アクセスポイントがないことに・・・。
大抵海外から自分のプロバイダーを経由してアクセスする場合に、そのプロバイダーが契約している海外アクセスポイントにつなぐことになる(海外ローミングサービス)。そのアクセスポイントを提供してくれるのが、GRICとiPass(GoRemote社、ipass社)。このおかげで世界150カ国でアクセスできるというスグレモノ!
なぜかGRICは今まで一度もつながったことがなく、iPassをいつも利用している。たぶん設定が悪いんだろうけど、iPassで全く問題ないので気にしていなかった。
ところが、そのiPassのリストにブルガリアがない!!!
セルビア・モンテネグロがあるのに??
ブルガリアは世界150ヶ国にもれているんだろうか・・・??
GRICには一応、ソフィアのアクセスポイントが存在するが、やっぱり何度やってもつながらない。この分では最悪、トルコへ行ってからのアップになりそう・・・。
そんなわけで、ブログの更新も大幅に遅れております。
イチオウ、日々書いてはいるんですけどね!
ゴールまでついにあと一週間。
このヒトリゴト日記が、帰国までにアップ出来れば良いのだけれど・・・。
ヴェリコ・タルノヴォは第二次ブルガリア王国に首都が置かれた古い街だ。
街の東にあるツァレヴェッツェの丘には、かつて大きな宮殿があったという。
ブルガリアの歴史は非常に古い。
先日もトラキア人について触れたが、その後は紀元前にギリシア、マケドニアによって入植され、さらに彼らの後に台頭してきたローマ帝国によって支配される。ローマが東西に分裂した後はヴィザンツ帝国の領土となるが、ブルガリア人がヴィザンツを破り第一次ブルガリア王国を建設。
300年後にはヴィザンツ帝国によって滅ぼされるが、その100年後には再び第二次ブルガリア王国が建国される。しかし14世紀の終わりにはオスマン朝によって滅ぼされ、以降500年間に及びトルコに支配されることになる・・・。
だからこそブルガリアには数多くの民族による遺跡が残されているのだが、残念ながらこのヴェリコ・タルノヴォにあった丘の上の宮殿は、オスマン朝との戦いによって完全に破壊されてしまった。丘を歩いているとその規模の大きさに驚かされる。谷にはヤントラ川が流れ、周囲には深い山々。その地の良さを利用した、最高の城塞だったに違いない。
歴史に"IF"は禁物だけど、この丘全体が宮殿だったとは!
もし現存していたら、さぞかし壮麗なものだっただろうと思う。
どのような人々が暮らしていたのだろう。どのような装飾がなされていたのだろう。
そう想像しながら歩いていると、何て残念な・・・、と思わざるを得ない。
谷から吹く風が心地よかったので、丘のてっぺんにある大主教区教会で一休みしていると、日本人のグループがやってきた。カトリック教会のとあるグループで、今回はブルガリアとルーマニアの教会を巡っているのだという。
たくさんの方が優しく声をかけてくれたが、中でもグループ率いる神父さんがとても気にしてくださった。彼も昔、三ヶ月間ヨーロッパを放浪したことがあるのだという。
「あのときの寂しさを思うと声をかけずにはいられない」と言い、自分たちのグループに昼食まで合流しないかとまで言ってくださったのだが、そっと断った。そのツアーは私も良く知っている旅行会社のツアーで、同業者の私などが一緒に歩いているだけで、添乗員さんも気が気ではないだろうから。
「あの時のつらさも忘れがたいけど、親切にされたことも忘れがたい。三ヶ月やり終えたら人生が変わるよ。がんばれ!」と背中を押してくださり、その暖かい言葉に胸が痛くなった。チェコを出て以来、およそ1ヶ月ぶりの日本語、日本人。そのみなさんが、別れ際に手を振って応援してくれたことを、私は忘れないだろう。
一瞬の出会いに過ぎなかったのに、応援してくれてありがとう!!
ネセバルという、美しい遺跡の町があるらしいから行ってみたい、というようなことを話していたら、ヴァルナ行きのバスを運転していたおじさんが、「それならヴァルナから直通で出ているよ」と教えてくれた。
次の目的地は決まった。ネセバルだ!
ネセバルは3000年もの歴史を持つ古代都市。ユネスコの世界遺産に登録されているということくらいしか知識はなかったが、行ってみることにした。
ホテルが意外に居心地がよく、町からのアクセスもそんなに悪くないので、ネセバルへは日帰りで行くことにした。この暑い中、なんの情報もないネセバルで、荷物を担いでホテル探しをする気力はなかった。またまた途方に暮れるのは目に見えていたからだ・・。
ネセバル行きのバスは、中心地から市バスで5分くらいのところにあった。
日本だと、バス停は大抵駅前にあるので大変便利なモノだが、ヨーロッパではほぼ間違いなく町の外れに鉄道駅やらバス停やらが点在しているので、目的のバスを探すまでがやっかいだ。情報を元にようやくそのバス停へ行ったのに、実は違ってました・・・、ということもしばしばある。
バスを二本乗り継ぎ、ようやくバスステーションに到着したが、ブルガリアで使われているキリル文字は判読が非常に難しく、ネセバルの文字が探せない。近くのバスドライバーに「ネセバルへ行きたいのだけど、どのバス?」とジェスチャーで聞いてみる。
すると、「ネセバル行きは出てないよ。ブルガスへいかなきゃ」と言うではないか!またガセネタだったよ!!とがっくりしつつ、ブルガス行きのバスを探そうと切符売り場へ行くと、「ネセバル行きは20分後に出るよ」とおばさんが無愛想に教えてくれた。なんだ、やっぱりあるじゃん~、と一安心。
ネセバルへは2時間弱で到着した。ヴァルナから約100kmの道のりだが、ルーマニアにはなかった冷房車で快適だった。ブルガリア人は親切な人が多く、英語が出来る人は積極的に話しかけてくれる。「どこへ行くんだ、困ったことはないか」・・・、これは久しくなかったことだ。
ルーマニアでは、確かに親切な人が何人もいた。しかし人によってはあとからお金を要求してきたりと嫌な目にあったこともあったので、うかうか親切に甘んじられないという現実の厳しさもあったのだ。
ネセバルの旧市街はほとんど島のようで、細い道で陸地とつながっている。
世界最古の黄金文明を築いたというトラキア人によって作られ古代から繁栄してきたが、その交易上・戦略上の重要性から、ギリシア、ローマ、ビザンツィン、ブルガリア、そしてトルコと多くの民族に支配されてきた。2時間もあれば全て見て回れるような小さな島だが、その中にはその時代の支配者による建造物がたくさん詰まっている。
街には一階は石造り、二階は木造という、昔ながらの独特な家が建ち並ぶ。その大部分がホテルやお土産屋、そしてレストランとなっており、その家々の間に、ローマ時代、ビザンツィン時代の建造物が顔を出す。個性的な装飾がなされた14世紀の教会には緑色の陶磁器が埋め込んであり、なかなか見事だ。多くの民族に支配された割には保存状態もとてもいい。(詳細は写真集のページで!)
ネセバルからヴァルナへの最終バスは18:00発。
お昼は海辺のレストランでブルガリア料理を、午後はぶらぶらと街をお散歩。
夕方はバス停の前のレストランで、絵はがきを書きながら一休憩。
充実した一日だった。
ブルガリアのヴァルナに何とか到着した。
トゥルチャからおよそ11時間に及ぶ長旅を経て・・・。
ルーマニアで出会ったギギさんの情報だけを頼りに、クリスチャンからトゥルチャ、トゥルチャからコンスタンツァ、コンスタンツァから国境を越えてヴァルナへ。
ドナウデルタの小さな村、クリスチャンからトゥルチャへはフェリーでの移動。行きは高速船で2時間弱だったのに、帰りはドナウ川を遡ることもあって3時間強かかった。
昼過ぎに到着し、トゥルチャでコンスタンツァ行きのバスのチケットを買おうとするが、レイ(現地通貨)が足りない!ユーロもドルもダメ、何件かお店に走り、外貨で買い物をしてお釣りを現地通貨でもらおうと試みるが、これもダメ!出発5分前、ようやくATMを見つけ現地通貨を引き出し、何とかチケットを購入。(この時点で既に体力を使い果たしたカンジだ。)
バスに揺られること2時間で次の町・コンスタンツァへ到着。コンスタンツァは思ったよりもずっと大きな街で、到着したバスステーションから次のバス、ブルガリアのヴァルナ行きを探すのが大変だった。
いろんな人が親切に助けてくれるが、全部情報が違う・・・(ありがち!)。最終的にこのバスステーションではなく、鉄道駅の前から出ていることが判明し、そこまで市バスで移動する。この市バスでまた一苦労。バス停のおばさんが教えてくれたバスが反対方向だったこともあって、この間の乗り継ぎだけで一時間かかる・・・。
何とかヴァルナ行きのバスを取り扱っている会社を見つけ、「ヴァルナ行きのバスに乗りたいんですが」と声をかける。すると「次は明日だね」とのお答え!ひぇ~、やっぱりそんなにうまくいかないか・・・と思っていると、別の女性が「あら、イスタンブール行きのバスが寄るわよ」と言ってくれた。
ラッキーなことに15分後に出発するという。朝食以来何も食べていないので、バス停付近で食料を用意し、バスに乗り込む。ここからヴァルナまでは5時間、到着は夜8時過ぎ。何とか日のあるうちに到着できそうだった。
このバスはルーマニアからブルガリア、そしてトルコ国境を越える国際線なのだ。
バスの中はすでにブルガリアを通り越して、トルコの香りがぷんぷんと漂っていた。
バスは見事なほど満席。15分前でチケットが買えたのがウソのようだ。隣にはルーマニアで働いているというイタリア人が座った。彼もヴァルナで降りるのだという。英語を話すので非常に助かった。
日本に電話をしたくてテレカを二枚も買って用意していたのに、あまりに移動が多くてそのヒマがなかったが、気が付いたらすでに国境。まずい!またテレカが無駄になる・・・、と思い、バスが国境を越える手続きをしている間に電話をしてしまおうと、電話ボックスに走る。「よしよし・・・」とテレカをさし、のんきに電話をかけ始めると、何とバスがみんなを乗せて国境を渡ってしまった!!
「ちょっと待って~、私がいるのよ!!」
と慌てて走ってゲートを通過。大丈夫、大丈夫と、国境の警備員たちが笑ってる。
さっきまで他の人たちもタバコを吸ったりして外に出ていたのに、いつのまにバスに乗り込んだんだろう??
国境エリアではルーマニア・ブルガリア側と、手続きで一時間以上かかった。
そこからバスで2時間、ようやくヴァルナに到着した。
ヴァルナに関する情報が全くないので、隣の席に座っていたイタリア人からいろいろと情報を入手。ヴァルナはブルガリア1の黒海沿岸リゾート、ホテルなどはたくさんあるらしい。
でも到着して分かったけど、リゾートホテルは当然海沿い、町中にはあまりない。ゴールデンサンドというリゾートエリアまで車で30分かかるという。それは困ったな・・・、と途方にくれていると、彼が親切にも、彼の友人のブルガリア人に、電話で適当なホテルを聞いてくれて、私をタクシーでホテルまで送ってくれた。
何て親切なイタリア人・・・!!
シチリア出身だという彼に、何の仕事でルーマニアやブルガリアを移動するのかと聞きたかったが、ちょっとヤバメなカンジ(電話の内容とか荷物とか・・)がしたので、敢えてその話題には触れなかった。
ホテルは町からかなり離れていたが、三つ星のきれいなホテル。ルーマニアでは全く縁のなかった近代的でクリーンなホテルだった。夕食をとる気力がなかったので、母が持ってきてくれたフリーズドライのおかゆを作って食べる。
あー、とにもかくにも、無事ブルガリア最初の夜を迎えることが出来た。
今日もまぁ、ハラハラさせられる一日だったけど、ラッキーな一日だったともいえるだろう。日本まであと2週間。明日は何が待っているのだろう・・・。
ウィーンからずっと一緒(?)だったドナウ川は、中欧8ヶ国を経由してついに黒海へと注ぐ。ルーマニアの東に広がるこの河口は、ヨーロッパ一の大きさを誇る湿地帯で、野生生物の宝庫。以前NHKのドキュメンタリーを見て以来、私の妹のアコガレの地でもある。
一回り以上年の離れた末の妹は現在高校一年生。花の女子高生のハズだが大の鳥好き、ヒマさえあれば部屋の窓からバードウォッチングにいそしむ変わり者。家ではアヒルを飼っているがこれは決して私の趣味ではなく、あくまでも妹のペット。私は怖くて触るどころか近づくことも出来ない。我が家の庭はアヒル様のもので、私など決して踏みいることの出来ない場所なのだ!
そんな妹とテレビを見て知ったのがこのドナウデルタ。モモイロペリカンの飛来地だ。「いつか行ってみたいね」と話していた場所がここルーマニアにあることに、ルーマニアに来てから思いだした。
ブラショフでお世話になったルーマニア人から「トゥルチャに行ってそこから船に乗り換えればいけるよ。クリスチャンていう場所で降りるんだ」という情報を得たからだ。事前情報はこれだけか・・・と思っていたら、ちょうど前日にお昼を同席したオランダ人から「ついこの間行ってきたよ!」と更に詳しい情報を入手。駅から少し行ったところにインフォメーションオフィスもあるらしいし、宿もたくさんあるらしい。
せっかくだから行ってみるか!ここまで来ることは滅多にあるまい。
そう思い、またまた進路変更。すぐに列車のチケット買いにゆき、早朝のトゥルチャ行き列車に乗った。
ブカレストからトゥルチャまでは列車で約6時間。今までルーマニアでは見たこともないほどの立派な車両、2等車なのにパノラマカーだ。このドナウデルタはルーマニアが世界に誇るユネスコ自然遺産。シーズンには多くの観光客が訪れるのだろう。
トゥルチャではインフォメーションオフィスへ直行、そこでクリスチャンへの行き方を教えて貰い、宿も押さえて貰った。クリスチャンへは高速フェリーでドナウ川を下ること一時間半。船着き場に到着すると、宿の人たちがボートで迎えに来てくれていた。ここでの交通手段は車ではなく船なのだ。
宿は船着き場から1kmほど離れたところにあり、表にはとうとうと流れるドナウ川、裏手にはそこから湖へと続く細い水道があった。敷地内には豚、牛、鶏が放し飼いになっており、畑にはネギやトマトが。これこそ本当のアグリツーリズモの宿かも!
夕方なら鳥も巣に帰るかも、と手漕ぎボートに揺られて近くの湖まで行ってみた。
残念ながら渡り鳥の来る季節ではないのか、湖水を覆うほどの鳥、とはいかなかったが、ペリカンに会えた。翌日は遠出をしようと、モーターボートをチャーター。いくつかの細い水道を通ってバードウォッチングを楽しんだ。
グループだったら旅行会社が主催するツアーがたくさんあるのでそれに参加すると良い。
あいにく一人だったので、私はあきらめたけど、やっぱり専門の英語ガイドがいたほうが楽しめるだろう。鳥に興味がある人なら言わずもがな。私は鳥音痴で、鵜とペリカンくらいしか分からなかったけど・・・。
ボートに揺られている間中、末妹の顔が浮かんだ。
あの子がいたら、どんなに喜んだことだろうなぁ。
あの子がいたら、どんなに楽しかっただろうなぁ、と。
機会があったらぜひ、彼女を連れてもう一度来てみたい。
シナイアは、ドラキュラ城のあるブラショフと首都ブカレストの間にある、
緑の森に囲まれた小さな町だ。
ブラショフからシナイアへはバスで移動した。列車の方が楽かなと思ったが、相変わらずストライキが続いていたからやむを得ない。
ブラショフから二時間、車窓からの眺めが平野から森へと移り変わり、シナイアへ到着したが、バスを降りてビックリした。
町がない!!!
駅の前後に広がるのは鬱蒼とした森。この森を抜けないと町に出られないのだ。
おもーいバックパックと、だんだん大きくなってきたサブバックを抱えて、ひたすら階段を上ると、ようやく町にたどりついた。
ルーマニアの中央を走るカルパチア山脈の、ブチェジ山の中腹にあるのがこのシナイア。シナイアの町の由来ともなった、シナイア僧院が建立された17世紀から町が形成され、王侯貴族の避暑地となっていたことから、この地には今でも美しい貴族の別荘が残っている。現在は夏は避暑地、冬はスキーリゾートとして人気が高い町だ。
繁華街から離れた、ちょっと坂を上がったところにあるホテルに宿を取り、そこからシナイア僧院へと向かった。
ホテルの裏にある、お墓の横から延びている道に沿って静まりかえった森の中を歩く。まだ2時前だったが、あたりは非常に薄暗く誰もいないので、「本当に道はあっているのか・・・」とドキドキしながら僧院への階段を上がった。
シナイア僧院は、森を抜けたところにひっそりとあった。こぢんまりとしているが、その姿は美しく神秘的だ。薄暗い僧院内には見事なフレスコ画が描かれていて、言葉を失う。
比較的歴史が新しいので保存状態も良いのだけれど、華美な装飾の多い他の僧院に比べ、何倍も神々しい。
シナイア僧院の辺りには貴族の別荘をそのまま使用しているヴィラなどがあるので、車やタクシーで移動できる人にはいいかもしれない。人々が馬車を使っていた時代そのままの雰囲気をこのあたりでは味わえる。
僧院の裏からはさらに森の中を上がっていく道があり、ようやく人の姿がちらほらと見えてきた。この先には、ルーマニア王カロル1世が建てたペレシュ城があるのだ。
森の中の道は、美しい小川に沿ってある。
緑豊かな森の中を、さらさらと流れる水の音に耳を澄ましながら散歩するのはとても気持ちがいい。お城に近づくにつれ、道路の脇に布や小物を広げているお土産屋さんが多くなる。ゲートからお城を右に見ながら広大な敷地を迂回して、ようやくペレシュ城へとたどり着いた。
その姿が、これまた見事!
今まで数え切れないくらい多くの城を見てきたが、これこそが私の中にある「お城」のイメージに最も近い。ヴェルサイユ(フランス)やシェーンブルン(オーストリア)などは大きすぎて「お城」よりも「宮殿」、昨日見たドラキュラの居城モデルとなったブラン城などは「お城」よりも「お館」に近い。(城や宮殿の定義が分からないけど、私の中では、という意味で。)
ペレシュ城は比較的新しく、19世紀後半に建てられたモノなので、中の保存状態も非常にいい。中は床の保存の為に靴カバーをし、ガイドに従って歩くというツアー形式。同じ敷地にある狩猟用のお城、ペリショール城もまたすばらしい。王妃がデザインしたという、王妃の部屋は必見。異国に迷い込んだかのような金の部屋は、豪華だがシックなデザイン。ブルーの扉には王妃が愛したという百合の花が。室内写真別料金のため、お見せできず残念・・・。
シナイアの背にそびえるブチェジ山には登ることも出来る。ケーブルカーを二つ乗り継ぐと、あっという間に標高2000m地点へとたどり着く。山頂付近には低い草花が生い茂り、羊がのどかに草をはむ。1400m地点には賑やかに売店もでており、大勢の人がピクニックを楽しんでいた。
カルパチアの真珠・シナイアは、そんな山々の麓にある、魅力溢れる町だった。
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