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ウィーンからずっと一緒(?)だったドナウ川は、中欧8ヶ国を経由してついに黒海へと注ぐ。ルーマニアの東に広がるこの河口は、ヨーロッパ一の大きさを誇る湿地帯で、野生生物の宝庫。以前NHKのドキュメンタリーを見て以来、私の妹のアコガレの地でもある。
一回り以上年の離れた末の妹は現在高校一年生。花の女子高生のハズだが大の鳥好き、ヒマさえあれば部屋の窓からバードウォッチングにいそしむ変わり者。家ではアヒルを飼っているがこれは決して私の趣味ではなく、あくまでも妹のペット。私は怖くて触るどころか近づくことも出来ない。我が家の庭はアヒル様のもので、私など決して踏みいることの出来ない場所なのだ!
そんな妹とテレビを見て知ったのがこのドナウデルタ。モモイロペリカンの飛来地だ。「いつか行ってみたいね」と話していた場所がここルーマニアにあることに、ルーマニアに来てから思いだした。
ブラショフでお世話になったルーマニア人から「トゥルチャに行ってそこから船に乗り換えればいけるよ。クリスチャンていう場所で降りるんだ」という情報を得たからだ。事前情報はこれだけか・・・と思っていたら、ちょうど前日にお昼を同席したオランダ人から「ついこの間行ってきたよ!」と更に詳しい情報を入手。駅から少し行ったところにインフォメーションオフィスもあるらしいし、宿もたくさんあるらしい。
せっかくだから行ってみるか!ここまで来ることは滅多にあるまい。
そう思い、またまた進路変更。すぐに列車のチケット買いにゆき、早朝のトゥルチャ行き列車に乗った。
ブカレストからトゥルチャまでは列車で約6時間。今までルーマニアでは見たこともないほどの立派な車両、2等車なのにパノラマカーだ。このドナウデルタはルーマニアが世界に誇るユネスコ自然遺産。シーズンには多くの観光客が訪れるのだろう。
トゥルチャではインフォメーションオフィスへ直行、そこでクリスチャンへの行き方を教えて貰い、宿も押さえて貰った。クリスチャンへは高速フェリーでドナウ川を下ること一時間半。船着き場に到着すると、宿の人たちがボートで迎えに来てくれていた。ここでの交通手段は車ではなく船なのだ。
宿は船着き場から1kmほど離れたところにあり、表にはとうとうと流れるドナウ川、裏手にはそこから湖へと続く細い水道があった。敷地内には豚、牛、鶏が放し飼いになっており、畑にはネギやトマトが。これこそ本当のアグリツーリズモの宿かも!
夕方なら鳥も巣に帰るかも、と手漕ぎボートに揺られて近くの湖まで行ってみた。
残念ながら渡り鳥の来る季節ではないのか、湖水を覆うほどの鳥、とはいかなかったが、ペリカンに会えた。翌日は遠出をしようと、モーターボートをチャーター。いくつかの細い水道を通ってバードウォッチングを楽しんだ。
グループだったら旅行会社が主催するツアーがたくさんあるのでそれに参加すると良い。
あいにく一人だったので、私はあきらめたけど、やっぱり専門の英語ガイドがいたほうが楽しめるだろう。鳥に興味がある人なら言わずもがな。私は鳥音痴で、鵜とペリカンくらいしか分からなかったけど・・・。
ボートに揺られている間中、末妹の顔が浮かんだ。
あの子がいたら、どんなに喜んだことだろうなぁ。
あの子がいたら、どんなに楽しかっただろうなぁ、と。
機会があったらぜひ、彼女を連れてもう一度来てみたい。
シナイアは、ドラキュラ城のあるブラショフと首都ブカレストの間にある、
緑の森に囲まれた小さな町だ。
ブラショフからシナイアへはバスで移動した。列車の方が楽かなと思ったが、相変わらずストライキが続いていたからやむを得ない。
ブラショフから二時間、車窓からの眺めが平野から森へと移り変わり、シナイアへ到着したが、バスを降りてビックリした。
町がない!!!
駅の前後に広がるのは鬱蒼とした森。この森を抜けないと町に出られないのだ。
おもーいバックパックと、だんだん大きくなってきたサブバックを抱えて、ひたすら階段を上ると、ようやく町にたどりついた。
ルーマニアの中央を走るカルパチア山脈の、ブチェジ山の中腹にあるのがこのシナイア。シナイアの町の由来ともなった、シナイア僧院が建立された17世紀から町が形成され、王侯貴族の避暑地となっていたことから、この地には今でも美しい貴族の別荘が残っている。現在は夏は避暑地、冬はスキーリゾートとして人気が高い町だ。
繁華街から離れた、ちょっと坂を上がったところにあるホテルに宿を取り、そこからシナイア僧院へと向かった。
ホテルの裏にある、お墓の横から延びている道に沿って静まりかえった森の中を歩く。まだ2時前だったが、あたりは非常に薄暗く誰もいないので、「本当に道はあっているのか・・・」とドキドキしながら僧院への階段を上がった。
シナイア僧院は、森を抜けたところにひっそりとあった。こぢんまりとしているが、その姿は美しく神秘的だ。薄暗い僧院内には見事なフレスコ画が描かれていて、言葉を失う。
比較的歴史が新しいので保存状態も良いのだけれど、華美な装飾の多い他の僧院に比べ、何倍も神々しい。
シナイア僧院の辺りには貴族の別荘をそのまま使用しているヴィラなどがあるので、車やタクシーで移動できる人にはいいかもしれない。人々が馬車を使っていた時代そのままの雰囲気をこのあたりでは味わえる。
僧院の裏からはさらに森の中を上がっていく道があり、ようやく人の姿がちらほらと見えてきた。この先には、ルーマニア王カロル1世が建てたペレシュ城があるのだ。
森の中の道は、美しい小川に沿ってある。
緑豊かな森の中を、さらさらと流れる水の音に耳を澄ましながら散歩するのはとても気持ちがいい。お城に近づくにつれ、道路の脇に布や小物を広げているお土産屋さんが多くなる。ゲートからお城を右に見ながら広大な敷地を迂回して、ようやくペレシュ城へとたどり着いた。
その姿が、これまた見事!
今まで数え切れないくらい多くの城を見てきたが、これこそが私の中にある「お城」のイメージに最も近い。ヴェルサイユ(フランス)やシェーンブルン(オーストリア)などは大きすぎて「お城」よりも「宮殿」、昨日見たドラキュラの居城モデルとなったブラン城などは「お城」よりも「お館」に近い。(城や宮殿の定義が分からないけど、私の中では、という意味で。)
ペレシュ城は比較的新しく、19世紀後半に建てられたモノなので、中の保存状態も非常にいい。中は床の保存の為に靴カバーをし、ガイドに従って歩くというツアー形式。同じ敷地にある狩猟用のお城、ペリショール城もまたすばらしい。王妃がデザインしたという、王妃の部屋は必見。異国に迷い込んだかのような金の部屋は、豪華だがシックなデザイン。ブルーの扉には王妃が愛したという百合の花が。室内写真別料金のため、お見せできず残念・・・。
シナイアの背にそびえるブチェジ山には登ることも出来る。ケーブルカーを二つ乗り継ぐと、あっという間に標高2000m地点へとたどり着く。山頂付近には低い草花が生い茂り、羊がのどかに草をはむ。1400m地点には賑やかに売店もでており、大勢の人がピクニックを楽しんでいた。
カルパチアの真珠・シナイアは、そんな山々の麓にある、魅力溢れる町だった。
今日はこれまでの2ヶ月に渡る旅を振り返ってみる。
というのも、今日は午後から結構雨が降っていて外に出られなかったので、張り切ってブログの原稿を書いたり写真を加工したりしたのにネットカフェがお休みだったのだ!!
これって結構がっくりなんだよねー。
だって、一生懸命書いたのにアップ出来ないんですよぅぅぅ。
この先の旅情報も手に入れたかったのにぃぃぃ。
とうだうだしてみたがどうしようもない。
寝るには時間が早いので、今回の旅をちょっと振り返ってみることにした。
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1.最も心に残っている所
デルフィ(ギリシア)とアッシジ(イタリア)。どちらも神に祈りを捧げる聖地。
町が非常にこぢんまりとしていて、どちらも散策しやすく過ごしやすかった。歩いているだけでも心が静まる、そんな場所。
3.最もおいしかった所
シチリアの屋台。アーティチョークの丸焼きは絶品だし、パンに挟んでくれた巨大なステーキもジューシー。そして格安(これポイント)!!
4.最もすばらしかった文化遺産
うーん、これは難しいなぁ。プラハ(チェコ)の旧市街の町並み、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿、ロドス島(ギリシア)の城塞、メテオラ(ギリシア)の修道院群あたりでしょうか。
5.最もすばらしかった自然遺産
プリトヴィッツェ湖群国立公園(クロアチア)。あの美しい湖水は忘れられない。
2日あれば充分に散策できる広さも魅力。足下を流れる清流に、心洗われた。
6.最もお気に入りの国
総合的にスロヴェニア。豊かな自然、かわいらしい街々に、美しい海とすばらしい文化・自然遺産。バランスが取れていてパーフェクト。食事もおいしい。
7.最も大変だったこと
ギリシアのメテオラからイタリアのバーリまでの移動。大変なことはあまりブログには書かないようにしているんだけど、この時ばかりは書いてしまいました・・・。
8.最もがっかりなこと
シチリア島で、一番楽しみにしていたモツィア遺跡に行けなかったこと!私がいたトラパーニから車で30分もあればついたのに、交通の便が非常に悪かった為、行けなかった。
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とりあえず、こんな所でしょうか。
残すところあと3週間。これらを越えるすばらしいことに出会えることを期待しつつ、この貴重な旅を楽しもうと思う。
今のいままで、”ルーマニア人”と接触する機会は全くなかった。
仕事柄、世界中の人と話すチャンスがあったし、実際たくさんの国の人と出会ったけれど、その中にルーマニア人は一人もいなかったのだ。
だから、私の中にあったイメージはかなり貧弱なモノで、ルーマニアといえばドラキュラ、なんとなく靄がかかったような薄暗いお城。あるいは、チャウシェスクによる恐怖政治。こちらはほんの15年ほど前の出来事だから、記憶にも新しい。
ハンガリーからルーマニアへ向かう列車では、一人の青年と同室だった。
ヨーロッパの列車では男女の区別なくキャビンが用意される(簡易寝台)。
だから、女の子一人とおじさん5人ということもあるし、逆に女の子4人に男の子一人ということも。今回はスキンヘッドの男性と相部屋だった、というわけだ。
見た目はちょっと怖いがとても親切だった彼は、ルーマニアに生まれたが米国へ移民として渡ったのだという。今回は12の時にルーマニアを出て以来、実に13年ぶりの帰国。恐怖政治を強いられ最も貧しかった頃に、彼の両親は国を出る覚悟を決めたのだろう。
ルーマニア出身の著名人は誰だったかと調べたところ、体操選手のコマネチがいた。当時すでにオリンピックの金メダリストだった彼女は、1989年にルーマニアを脱出、アメリカに亡命している。
非常に厳しい時代を生き抜いてきて、今のルーマニアがあるのだ。
アメリカに移民してからの生活も、彼らにとって決して楽ではなかったはずだ。
だから、今回の祖国への帰国には、様々な思いが去来していることだろう。
「ほら、街があるけど、ほとんど廃墟でしょ。あれは人々がみんな他の国へ逃げて、まだ戻ってきていないんだよ」と、彼は指さす。
経済状態は今なお深刻。EU正式加入を目標にがんばっているが問題は山積みだ。
ルーマニアに入った途端、駅に止まると物乞いがやってくる。
これまでの国々にはなかったことだ。
しかし、以外だが人々は明るい!
というのも、中欧唯一のラテン民族で、「スラブ人とはワケが違う(ルーマニア人談)」そうなのだ。「踊るの大好き、歌うの大好き」で、女の子を見ると話しかけずにはいられないらしい!
「特に日本人は大好きで、男の子たちはじっと君を見つめるかも知れないが怖がらないで。単に興味があるだけで悪気はないんだ!」とは、宿を世話してくれたギギさん。
ルーマニアにしろ、トルコにしろ、日露戦争で大国ロシアをちっぽけな日本が負かした、というイメージが未だに強い(巷ではそう言われている)のか、日本に対して親近感を持ってくれている。
レストランで食事をしていると、ウェイターが「日本から来たのか!あー、もっと時間があれば、町中を案内したのに・・・!」と、こうである。イタリア人やスペイン人のように馴れ馴れしくない(失礼!でもすぐ手を握るしね・・・)、ちょっとシャイだけど一人でいる女の子をほおっておけない、そんな人々なのだ。
女の子たちのファッションや化粧、髪の毛の染めかたなどは、ウクライナ人を彷彿させる。私は長年ウクライナ人と一緒に船上で働いてきたので、そんな彼らには親しみがわく。
ラテンだけど、トルコやロシアといった、全く別の文化が混ざり合っているカンジだ。そうルーマニア人に言ったら「そんなことはない!」と言っていたけど・・・。
やっぱり直接人々と話してみないとその国のことは分からない。
今までのイメージと違ったものを発見することに、旅の醍醐味はあるのだ。
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