イタリア
ポエニ戦争を思う。~見ることの出来なかった、モツィア遺跡に想いを馳せる~(5月4日/出発から23日目)
第一次ポエニ戦役は、紀元前264年に始まり、実に25年にも及んだ。
第一次ポエニ戦役前は、西シチリアはカルタゴの支配下にあった。
シチリアにセリヌンテ、アグリジェンド、シラクサ等数多くの植民地を作ったのはギリシア人だ。そのギリシアが衰退を始めると、当時圧倒的な海軍力を誇ったカルタゴがその半分を支配した。東側はというと、独立していた。メッシーナと強国シラクサの支配が及んでいたのだ。
そこに台頭してきたのがローマ人。戦争を始めた当時は海軍さえ持っていなかった弱小国のローマが、第一次・第二次ポエニ戦争を経て、ついに大国・カルタゴを滅亡させるのである。
私が宿泊しているトラパーニはカルタゴの最後の拠点であった所だし、その沖ではかつて新興国ローマと、地中海最大の海運国カルタゴが、総力を結集して戦ったのだ。
今、私がいるのは、そんなカルタゴの支配が及んだ土地なのだった。
第一次戦役後、カルタゴは400年にも渡って築きあげてきたシチリアでの全ての権益を失った。
第二次戦役では、かの有名なカルタゴの勇将・ハンニバルと、ローマの名将・スキピオが国の命運をかけて戦う。当時カルタゴの支配下にあったスペインから、ハンニバルが象を率いてアルプスを越えたのは有名な話だ。
ハンニバルが象と大軍を率いてアルプスを越えたのは、弱冠29歳の時だったという。その明晰な頭脳と、冷静な分析力、そしてずば抜けた情報収集力で、ローマを何度も敗北に追いやった希代の戦略家だ。
写真で見た、モツィアから出土した「モツィアの若者」(紀元前5世紀)像に、そんなハンニバルの姿を(勝手に)重ねていた。等身大だという、大理石で出来たすばらしい彫刻。がっちりとした体躯に、精悍な顔立ち。美しいやわらかなプリーツの入った衣装をまとい、腰に手を当てて立っている姿に、きっとハンニバルはこんなだったに違いない、と勝手に思いこんでいた。
だから、モツィアに行くことは、私にとってはハンニバルに会いに行くようなものだった。モツィアはトラパーニとマルサラの間にあり、現在は塩田となっている港から小舟で渡る。端から端まで歩いても15分だという小さな島は、まるごとカルタゴの遺跡なのだ。
カルタゴの本拠地であるチュニスの遺跡は、そのほとんどが破壊されてしまったと言うから、モツィアの方が期待できる。何より、彼が待っていた。
セリヌンテ遺跡へ行く途中、このモツィアへの船着き場に、偶然行くことが出来た。私をセリヌンテまで送ってくれたドイツ人二人が、この塩田の見学をしたくて立ち寄ったのだ。船が狭い水路に数隻待機していて、そのうちの一隻がまさに観光客を乗せ、モツィアに行くところだった。その様子を見て、「私も明日、あそこへついに行けるのだ!」と胸を躍らせたものだ・・・。
結果は、自力ではアクセスが悪すぎて、行くことが出来なかった。(理由に関しては5/4のヒトリゴト日記をご覧下さい。。)本当に残念だけど。目の前にまで行ったのにも関わらず、モツィアに行けなかったことが悔やまれる・・・。
今回は運がなかったのだ。
まぁ、またいつか、彼に会える日もあるだろう。
そういい聞かせて、カルタゴゆかりの地、トラパーニを後にした。
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