京都と江戸を結ぶ有名な街道を人は
「東海道五十三次」と呼ぶ。
しかし、本当は五十七次あるという。滋賀県大津宿から東海道は二つの街道に分かれる。京都へ行く道と大阪へ行く道。
大阪への道は伏見、淀、枚方、守口に宿がありこの4つを含めると五十七次になるのだという。
大阪が徳川幕府直轄になった1619年伏見までだった道が東海道と直結し、西国大名が参勤交代で往路する道となる。
さて、伏見の旅籠で有名なのは坂本龍馬ゆかりの宿
「寺田屋」。百姓伊助が慶長2年に伏見京橋に船宿を開き、出身の寺田村の村名をとり「寺田屋」と命名。
京へ向う船着場だったこともあり、維新当時から賑わいをみせる旅籠で、その後、薩摩藩士の定宿になり、藩士たちのたまり場にもなった。
そして、維新史を語る上ではずせない事件、
「寺田屋事件」がこの板の間で繰り広げられる。
1862年薩摩藩尊王派が薩摩藩公島津久光によって粛清された薩摩藩の「内輪もめ」事件。藩兵を率いて上洛した島津久光は日本中の尊王派の希望を背負った。
しかし、久光はその期待を裏切り、公武合体活動を開始。
※公武合体
公家(朝廷)の伝統的権威と、武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再構築をはかろうとした政策論
このことに不満をもった尊王派の志士たちが寺田屋に集まって襲撃を相談。
久光は騒ぎを抑えようと9名の刺客(奈良原など)を送るも、説得がうまくいかず、寺田屋の居間で斬り合いが行われ、7名が死亡。
そして、坂本龍馬ゆかりの地として名を刻んだ事件がおこる。
1866年、寺田屋に宿泊していた龍馬を伏見奉行の捕り方たちが龍馬を暗殺しようと計画した事件。
同宿のお龍(龍馬の後の妻)が風呂に入っていたとき、何やら外が騒がしい。これは大変と素っ裸のまま、階段を駆け上り、龍馬に危機を知らせたことで有名。
寺田屋は坂本龍馬の妻となったお龍を語る上ではずせない宿。この事件がきっかけで結婚することになったといっても過言ではない。龍馬とおりょうのお話は
こちらで。
そして、最後に忘れてはならない6代目伊助の女房で寺田屋の女将「お登勢」。機転がきき、人に優しく、ときにはお母さん、ときには友達のように藩士たちを助けたことで有名。
「寺田屋といえばお登勢」と呼ばれ、後世まで名を残しました。
寺田屋の庭にある「薩摩九烈士碑」の隣にはその偉業と数々の志士を助けたお登勢をたたえる文が刻まれる碑が今でも残っている。そして、現在、近くにある松林院で静かに眠っている。
現在も旅籠として機能しており宿泊することが可能。維新当時そのままの旅籠に泊まり幕末の激しく揺れた世を感じてみてはいかがでしょうか?
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寺田屋
京都府京都市伏見南浜町
電話:075-622-0243
館内見学時間:10:00-15:55
入場料:大人400円
素泊まり:6500円
チェックイン:18:00 チェックアウト:9:00
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